八重の桜支援事業・まとめ <<< 組織・施策 INDEX <<< 会津若松商工会議所 INDEX
会津若松商工会議所では、NHK大河ドラマ『八重の桜』を成功させることが、東日本大震災・原発事故から東北の復興に大きく結び付くとし、平成24年より重点事業として「八重の桜支援事業」を展開、さらに平成25年のドラマ放送開始にあわせ、京都商工会議所との相互交流協定を調印し、活性化に向けて様々な事業を展開して参りました。
私たちは、全国からの応援の支えもあり、観光振興による会津の、福島の、そして東北の復興の礎を築くため全力で取り組み、大きな成果を上げることができました。
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「八重の桜支援事業」を通して、八重の桜が示した今後の会津地域の活性化のために、2つのテーマを未来に残していく結論に達し、次の通りまとめさせていただきました。
1.会津弁を地域の宝として未来に伝える。
2.「会津の教学」を全国に誇る教育ととらえ、未来に伝える。
1.会津弁を地域の宝として未来に伝える。
「八重の桜」に学ぶ残したい会津弁
会津若松商工会議所は「八重の桜支援事業」の一環として、会津弁の魅力を再発見し、会津のかけがえのない遺産として未来に残すため、本事業を展開致しました。
当所では平成25年のNHK大河ドラマ「八重の桜」放映開始に合わせて、ドラマ出演者に方言指導を行っている会津若松市出身の俳優・河原田ヤスケ氏を講師に迎え、「残したい会津弁セミナー」を開催致しました。講話では、ドラマ出演者のエピソードや会津の民話等を通して、会津弁の特徴や分かりやすい語り方の説明がありました。会場から「この機会を生かし会津弁を全国に通ずる標準語にすんべし!」「風評被害に苦しむ会津観光に会津弁を生かし、活力を取り戻したい」などの発言があり、「会津弁は会津の宝である」との認識で一致しました。
これを機会に是非、会津弁を「残すべき会津の遺産」として語り継いでいって欲しいと思います。
「身近な会津弁の使用例」
※会津地方の面積は広大で、千葉県がすっぽり収まるほどです。このため会津弁も域内の各地で様々な表現がありますが、ここでは会津若松市内で使用されている代表的な方言の一部を分類させて頂いております。
◆家族の丁寧な呼び名 | ◆丁寧な言い回し |
◆普通の会話で使われる言い回し | ◆一般に良く使う言葉 |
◆家族の丁寧な呼び名(主に商家や商人が使用) 語尾に「つぁま」をつける
大河ドラマ「八重の桜」より
- 藩の軍制に意見して禁足の処分を受け、落ち込んでいる山本覚馬に対して、八重が呼び掛ける場面。
八重「あんつぁまがあぎらめると言っても…、私はあぎらめねぇ。鉄砲を極めるまで、ひとりでも続けやす」
- 兄嫁のうらについて、幼馴染の高木時尾と八重の会話。
時尾「うぢのおばば様が、感心しでだ。よぐ働くお嫁様だって」
八重「あねさまがなじょな人が…、私にはさっぱりわがんねぇ」
大河ドラマ「八重の桜」より
- 八重が妖霊星(彗星)の見えたことを覚馬、川崎尚之助に知らせる場面。
八重「あれ、見らんしょ!妖霊星(ようれぼし)だし」
- 謹慎を命じられた西郷頼母と八重が桜の木を手入れする場面。
八重「私にお手伝いさせてくなんしょ。木が枯れては私も困っからし」
- 高木時尾が山川大蔵を巡って八重に嫉妬していたことを告白する場面。
時尾「気づいてだけど、教(おす)えたくなかった。あんまり妬ましくて…。ごめんなんしょ。嫌なおなごだな、私」
(語尾に「〜べし」をつける)
大河ドラマ「八重の桜」より
- 新式銃が藩に採用されずいらだつ尚之助を八重がなだめる場面。
八重「認めで頂けるまで、何度でも何度でも、つぐり直すべし。私がずっとお手伝いいたしやす」
(語尾に「〜だからし」をつける)
(語尾に「〜なし」をつける)
大河ドラマ「八重の桜」より
- 山本三郎(八重の弟)が鉄砲の訓練をしているのを見ていた藩士の子弟と八重が交わした会話。
八重「なじょして、早ぐ鉄砲さ覚えてえのがなし?」
伊東悌次郎「鉄砲が一番強えがらです」
伊東盛之輔「鉄砲や西洋式の調練やんねど、他藩に遅れをとりやす」
八重「よいお心がけだなし」
- 息を引き取る直前の夫・襄に八重が話しかける場面
八重「戦の傷も、犯した罪も、悲しみも…。みんな一緒に背負ってくれだ。私を愛で満たしてくれだ…。ありがどなし」
◆普通の会話で使われる言い回し(同じ程度もしくは目下に使う)
(語尾に「〜べ・〜だべ」をつける)
大河ドラマ「八重の桜」より
- 山本権八(八重の父)が、鉄砲を打ちたいとせがむ子供の八重に言い聞かせる場面。
権八「何より立派な武士でなげればなんねぇ。わがんべ。二度と鉄砲の真似事はすんな。いいな」(わがんべ→わかるだろう)
(語尾に「〜みっせ」をつける)
(語尾に「くっちゃ」をつける)
(語尾に「〜ぐね」をつける)
大河ドラマ「八重の桜」より
- 会津城下に敵が迫り、三郎(弟)の軍服を身に着けて支度した八重がつぶやく言葉。
八重「逆賊の汚名を着せで、会津を滅ぼしに来る者だぢには、負げだぐねぇ。私は戦う」
(語尾に「〜がよ」をつける)
(語尾に「〜くんつぇ」をつける)
大河ドラマ「八重の桜」より
- 覚馬が、会津へ来た尚之助に対して、蘭学所での協力を呼び掛ける場面。
「力(つから)貸してくんつぇ。会津で仕官できるように俺が願い出る。きっと大丈夫だ」
(語尾に「〜らんに」をつける)
大河ドラマ「八重の桜」より
- 同志社女学校に入学した薩摩の娘・リツを八重が看病する場面。
八重「会津のために、弟のために戦った。迷いはながった…。んだげんじょ。リツさんに出会って自分のしたごどを思い知らされた」
・語尾の変化による言い回しの例
2.「会津の教学」を全国に誇る教育ととらえ、未来に伝える。
会津の教学
会津藩の基底に横たわる精神は、「山崎闇斎の朱子学と吉川惟足の神道」に尽きます。正之はその基本を「家訓十五カ条」に示し、それは会津藩の精神的支えとなって、子孫に受け継がれることになるのです。そして、会津藩独特の学問の振興となって、後々に大きな影響を与えていきます。それは庶民の学校、「稽古堂」の設立から、藩校「日新館」へと発展して、会津藩の教学の伝統が受け継がれていきました。そこに流れる精神は、藩祖保科正之公の「家訓十五カ条」なのです。
この中には、正之公が唱えた儒教精神(朱子学的階層倫理)が母胎となって、後の九代松平容保の京都守護職の受容となって示されるのです。
その影響を受けて、『会津日新館童子訓』が享和三年(1803)に作成され、それを基に藩士の幼年向けの『什の掟』(什とは、十人前後の六歳から九歳の集団で、その集団での幼年向けの掟)が定められていったのです。そして、それが現在「あいづっこ宣言」となり、若松では青少年のしつけ教育となっています。
〈現代語訳〉
- 将軍への徳義は心を合わせて大切に忠勤を保つべきで、諸国の例でもって自分自身の拠り所としてはいけない。もし背く心を懐いたならば、その時は我が子孫ではない。各々決して疑ってはならない。
- 戦いの備えを怠ってはいけない。民の上に立つ者を選ぶことを基とすべきである。上下の身分を乱してはいけない。
- 兄を敬い、弟を慈しむべきである。
- 婦人、女性の言葉を一切聞いてはいけない。
- 主君を重んじ、法を畏れ慎まねばならない。
- 家中の者は作法・行儀を正しく励むべきである。
- 不法な報酬を受け取ったり、上の者にへつらったりしてはいけない。
- 各々、特定の者をひいきしてはいけない。
- 民の上にある者を選ぶのに、媚びへつらい、人の気に入られるように立ち回る者を取り上げてはいけない。
- 賞罰を行う時は、家老以外の者が参加してはいけない。もし職分以外の者が行うならば厳格に処置すべきである。
- 藩主の近くに仕える者に対して人の善悪を告げさせてはいけない。
- 政は利害によって道理を曲げてはいけない。評議は私ごとを挟んで拒んではいけない。思う所を心に納めず大いに議論すべきである。烈しく争っても我が意に介してはいけない。
- 法を犯す者を許してはいけない。
- 「社倉」は民のために設置して、永く(民のために)利益となるようにするものである。ある年に(民が)飢えれば、直ちに倉米を開放して民を救うべきである。
- もしその志を失い、遊興を好み、ぜいたくな生活をして、人民に対してその志をなくさせてしまえば、その場合は何の面目があって、社倉の封印をしてその土地を領有することができるだろうか。その時は、必ず辞表を奉って謹慎すべきである。
「日新館童子訓」は、藩士子弟の道徳教育に用いられたもので、父母や主君らに仕える心がけと作法について藩内の実話など七十五の実例を上げながら諭しています。さらに童子訓が刊行された後、文化二年(1805)に童子訓の趣旨徹底を目的に「幼年者心得之廉書(かどがき)」が通達されました。これは日新館で学ぶ藩の子供たち向けに作られたもので、日常生活で守るべきこと17条からなり、「什の掟」「童子訓」「家訓十五ケ条」と年代ごとにつながる会津の教学の重要な一部分であります。今読み返しても大切な内容を含んでおりますので、現代語訳を掲載します。
【現代語訳】
其の一
「毎朝早く起き手を洗い口をすすぎ、髪を梳(くしけず)り衣服を正しく着て父母のご機嫌を伺い、年齢に応じ部屋を掃除し、お客の準備などをしなさい」
其の二
「父母及び目上の人に朝夕の食事の給仕、お茶煙草の支度をしなさい。父母と一緒に食事をする時は、父母が箸を取らないうちは食べてはいけません。理由があって父母より早く食事をする時は、その訳を告げて食べなさい」
其の三
「父母及び目上の人の出入りの際は、必ず送迎をしなさい」
其の四
「出かける時は父母に暇(いとま)を乞い、行先を告げ、帰った時も同じく挨拶をしなさい。全て何事も父母に伺い、自分勝手にしてはいけません」
其の五
「父母及び目上の人の前で立ちながら話したり、立ちながら聞いたりしてはいけません。寒くても手を懐に入れてはいけません。暑くても扇子は使わず、肌脱ぎをせず、着物の裾をかかげてはいけません。そのほか汚れたものを父母のみえる所に置いてはいけません」
其の六
「父母及び目上の人が用を命じたなら、謹んで承知し、すぐ実行し怠ってはいけません。呼ばれたなら速やかに返事をして行きなさい。仮にもその命令にそむいたり、口答えなどしてはいけません」
其の七
「父母は衣服を重ね着するよう命じたら、寒くなくても従いなさい。新しく衣服を貰ったら、自分の好みに合わなくとも謹んでいただきなさい」
其の八
「父母が常にいる畳に居てはいけません。みちの真中は偉い人が通るところですから、片側を歩きなさい。門の敷居を踏まず、中央を通ってはいけません。お城の門はなおさらです」
其の九
「先生または父兄と同じくらいの役儀の人に道で会った時は、道の傍らに控えお辞儀をしなさい。行先などを聞いてはいけません。一緒に行く場合でも後から行きなさい」
其の十
「人の悪口を言ったり、人を笑ってはいけません。ふざけて高い所に登ったり、深い所に行くなど、危ないことをしてはいけません」
其の十一
「すべて学習の際は姿かたちを正しくし、謙(へりくだ)り敬って授業を受けなさい」
其の十二
「容貌は徳のすなわちといいます。侍とはっきり分かるよう威儀をたしなみ、無礼な立ち居振る舞いをしてはいけません。いくら懇意に交わっていても言葉を崩さず、目下の者との挨拶も使用人などと同じにしてはいけません。言葉も他の国に通じないような下品で粗野な言葉は常に気をつけ直しなさい」
其の十三
「父母が在宅の時、贈り物などあった際、自分勝手にしてはいけません。人から贈り物があったらお辞儀して受け、父母が喜ぶことを伝えなさい」
其の十四
「父母の助けとなることは、労をいとわずこまめに行いなさい」
其の十五
「偉い人が我が家に来る場合、或るいは出かける際、また目上の人が来たなら、立って出迎え、帰る際もお見送りしなさい。来客の際は使用人はもちろん、犬猫にいたるまで叱ってはいけません。偉い人の前でため息やくしゃみ、あくびなどをしてはいけません。すべて退屈な様子を見せてはいけません」
其の十六
「年長者に何か問われたら、まず周りの人を顧みてから答えなさい。我先に軽率に答えてはいけません」
其の十七
「酒宴遊興を楽しみとしてはいけません。年若い時に特に慎まなければならないのは色欲です。一生を誤り、名を汚すものですから、幼年の時から男女の別を弁(わきま)え、色欲の話などをしてはいけません。また戯言(ざれごと)を言って人の笑いを催したり、軽薄な振舞いをしてはいけません。争いは我慢から始まりますから、常に慎みなさい」(※ここでの「我慢」は高慢、意地を張るの意味)
現代語訳:野口信一著「会津えりすぐりの歴史」(歴史春秋社)より
- 年長者のいふことに、そむいてはなりませぬ。
- 卑怯な振舞をしてはなりませぬ。
- 年長者にはお辞儀をせねばなりませぬ。
- 虚言をいってはなりませぬ。
- 弱い者をいじめてはなりませぬ。
- 戸外で物を食べてはなりませぬ。
- 戸外で女の人と言葉を交へてはなりませぬ。
- ならぬことはならぬものです。
「あいづっこ宣言」に込められた内容は、青少年の行動規範であると同時に、大人の行動規範でもあります。幼いころに「あいづっこ宣言」を覚え、思春期や青年期には困ったときや苦しいときに思い出し、親になったときには子育ての柱として、また、大人として人生に悩んだときには生きる力として、また、孫たちには教え聞かせるなどして、人生のそれぞれの時期に、私たち会津人の心の糧として、この「あいづっこ宣言」をいかしてほしいと考えています。
作家の故・司馬遼太郎さんは、随筆「歴史を紀行する」で「封建時代の日本人のつくりあげた藩というもののなかでの最高の傑作のように思える」と教学を基礎とした会津藩の教育・文化水準の高さについて触れています。また小説「王城の守護者」では松平容保公の姿を描き、会津の精神文化へ深い理解を示していました。これを後世に伝えようと当所宮森会頭を実行委員長とする実行委員会が組織され、容保公の守護職拝命150年の2012年より事業に着手。2013年11月2日、会津若松市の鶴ヶ城・三の丸に文学碑が建立され、歴史小説の大家の足跡とともに会津の教えの確かさが刻まれました。
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